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日本に於ける金の歴史は、8世紀聖武天皇によって国家安寧を願う黄金の大仏を建てることが発願され宮城県北部の涌谷の地に砂金を求めたことに始まります。 また、奈良時代に陸奥地方で砂金が見つかり奥州藤原氏は平泉の中尊寺に、内壁すべてを金箔で押した金色堂を造りました。 そして、戦国時代は軍資金確保のため金山、銀山開発が各地で活発に行われました。 特に武田信玄とその子勝頼の時代には本国甲斐のほか信濃、駿河、三河、飛騨、越中にまたがって領内28カ所に金山があったと云います。 その後の徳川幕府も同様で家康は大久保石見守長安に命じ産金を奨励しました。 そして、この伊豆土肥も江戸幕府の重要な金山でありました。 |
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天正年間(1577年)に開発され、江戸初期に盛んに採掘され繁栄した土肥金山も、元禄3年(1690年)以後はまったくかえりみられることなく荒廃していきました。 明治33年(1900年)になって河合金次郎が金銀の露頭を発見し採掘を開始、業績が上がらず明治39年(1907年)に神戸の実業家長谷川_五郎氏の手によって探鉱、採掘が行われ昭和43年(1968年)まで開発されましたが閉山してしまいました(金銀は掘り尽くされたわけでなく時代の中で採算にのらないからです)。 今でも土肥の地下には金銀があります。一説には牛が寝ている姿をした鉱脈があるとも云われています。ただ、採算に合うかは別として・・・・・ |
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三菱マテリアル株式会社は、重量250kg、世界最大の金塊(サイズ:底面445×225mm、上面:380×160mm、高さ:170mm)の鋳造に成功しました。 この世界最大の金塊は、三菱マテリアル(株)直島製錬所(香川県香川郡直島町)にて製造され、これまでの大型金塊(1995年に120kg、2000年に200kg金塊)の鋳造経験と、長年の鋳造技術を駆使し、さらに、金塊の表面全体を美しく仕上げることに関しては、鋳造から冷却にいたるまでの技術を存分に発揮し、成功しました。 金重量の250kgは、金箔に伸ばすと畳7万枚以上、東京ドームでは26個以上、敷き詰めることができます。 |
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2000年に鋳造し成功を収めた200kgの土肥金山の金塊は、世界最大の金塊としてギネスブックにすでに登録されていますが、昨年末には、台湾で220kgの金塊を作成したとのニュースもあったことから、金のリーディングカンパニーとしての卓越した鋳造技術を世界に証明すべく、この度さらに大きな金塊の鋳造を決定、今回の成功に到ったものと云われています。 三菱マテリアル(株)では早速、2005年6月15日に世界最大の金塊としてギネスブックへ申請をしているところであります。 なお、金塊の一般公開は、土肥マリン観光株式会社(静岡県伊豆市土肥)が経営する観光施設「土肥金山」にて、7月11日より一般公開、展示されております。 (土肥金山ホームページより抜粋) |
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土肥は金山開発としても有名な所です。今から400年前徳川家康は金銀の乏しいことを嘆いていました。 重臣の大久保長安はこれを聞き全国の金銀山を開発しました。 伊豆では土肥、湯ヶ島、縄地などの金山も開発し徳川幕府の財政の基礎をつくりました。 土肥採掘の金銀は葵の紋入りの千石船により土肥港より駿府の金座に回送され慶長小判の原料となりました。 その後、長安は幕府転覆の陰謀や金銀の横領のかどで斬首されました。 この横領したと云われる金銀の財宝はいまだに発見されていません。 |
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埋蔵金や黄金の隠し場所を示す代表的な枕言葉に 「朝日さす 夕陽輝くゆづり葉の根に 黄金千枚二千枚」 と云うくだりがあります。 実は土肥にもこの伝説が3ケ所にあります。 そのうちの一つ、中浜御殿(土肥館付近)は大正年間に掘り起こされた事もあるそうですが、残念ながら何も出てこなかったそうです。 |
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天正5年((1577年)に金山奉行大久保石見守長安によって開発された伊豆最初の手掘りの金山で、内部には空気対流を利用した逆さ階段や換気装置があり学術的にも貴重な金山です。 長さ60mの金鉱で最深部には幸せをもたらす山の神が「がん」と呼んで祀ってあります。 そのような事からこの金山を「がん付き天正金鉱」と呼んでおります。 坑道入口の手前には昔、水銀を使って金の精錬をした炉の跡も発見され土肥の文化財として公開されています。 案内のおじさんの語り口も楽しく、手堀の金採掘の体験もできます。 あなたも一度金鉱石採掘を体験してみたらいかがでしょう・・・・ |
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治承3年(1179年)、文覚上人が源頼朝に挙兵を促すため父義朝の遺骨を携え海路伊豆に来る途中、遠州灘付近で嵐に遭い、船は転覆しそうになりました。 文覚は懐に入れておいた不動明王像を取り出し一心に拝みました。すると、嵐はおさまり、海も静かになって土肥八木沢の海岸の三島神社付近に漂着することが出来ました。 三島神社は伝承によるともとは八幡神社と称し若宮八幡と正八幡の二神が祀られていたといいます。 村人の救護を受け元気を回復した文覚は兵を動かす為に必要な軍資金(砂金)を集めるべく土肥を始め西伊豆一帯の産金を探索し、採鉱冶金の技術をもつ金堀衆(山師)、忍者、修験者に源氏への協力を取り付けて頼朝がいる韮山蛭ヶ小島へと赴きました。伊豆はこの時代から金の宝庫であったのでした。 協力した金堀衆たちは通常は産金の分け前を報酬として貰うことになっていますがこれらの一部を何処かに埋めておいたとも想像されます。 だとしたら今なお掘り出されてはいません。 1180年、文覚上人に頼朝は源氏再興の旗揚げの決意を迫られ運試しにこの石を一刀両断に切り、決意を新たにし伊豆韮山で旗揚げをしたのであります。(西伊豆スカイライン土肥側入口) |
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小下田中村の神明神社の道路脇に頼朝公の足跡といわれるひとかかえほどの石がありました。その上部には大人の足形の大きさをしたへこみがついていたものがありましたが、先年道路の拡幅のため竜泉寺境内に移動しました。 竜泉寺境内には左右二つに分けられた足型の石が並んでいます。これは頼朝が富士山頂より飛び降りた時についたへこみだといわれています。この足跡の横に石灯籠があり、足を病む人はわらじや草履、賽銭、花など供え足が丈夫になるよう祈っています。 1192年(建久3年)には、頼朝が征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開き、その後、1195年(建久6年)土肥八幡神社に鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請したとの伝承も残っております。 土肥八幡神社は、毎年10月の第三土・日に祭典が行われ二頭立ての神馬騎による浜降り式と流鏑馬が行われます。 |
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下村の旧道沿いの山裾(駿豆学園の上方)に咳に効くという「咳のばあさん」の石碑がたっています。 この上方に狭いながらも平地があって、小さな石の祠が落葉に埋まって建っています。ここに通称「呼ばわり堂」が建っていたと云われています。 正しくは最福寺に属する喚叫庵というお堂でした。 このお堂に住んでいた一人の僧が、小判をお堂の床下に埋めて、僧は次のように云って何処かへ去っていってしまいました。 「朝日さし 夕陽輝く萩の下 黄金千両漆満杯」 しかし、この僧はどうしてか帰って来ませんでした。埋められた小判は主を慕って、夜な夜な人を呼んだと云い、そして「呼ばわり堂」と云うよういになったそうです。この黄金と漆はいまだに世に出ていません。 |
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昭和6年12月(1931年)に土肥新田で新しい金鉱脈が湯ケ島の杉山三平氏によって発見されました。 昭和7年7月(1932年)に持越金山に買収され清越鉱山と命名され土肥は土肥金山、清越鉱山という二つの金山を持ち昭和9年(1934年)には慶長以来のゴールドラッシュとなったほどの勢いでした。 黄金がむき出しの露頭金の存在もあるようです。 ただ今は土肥金山同様閉山されています。 |
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大久保石見守長安のあと土肥金山を管理したのが金山奉行市川助右衛門尉でありました。 彼は字を喜三郎といいました。光源寺由緒の伝承によると、彼の先祖市川喜太郎は室町三代将軍足利義満(金閣寺建立者)に従って土肥に漂着し、この地で没したとされています。喜太郎の子孫は土肥に住みつき元亀元年(1570年)市川喜三郎が一寺を建立し、その寺の名称を金銀山光源寺と号したといいます。しかし、元亀年間には土肥金山は存在しなかったからこの寺号はもっと後になってからであろうとの推論もあります。 創立当時の光源寺は土肥中学校裏手の金山奉行堂背後地山中の寺であって山崩れや火災に遭い現在の中浜区に移転したと云われております。市川助右衛門尉は郷土史家の推論によると大久保石見守の配下のものであり、おそらく忙しい全国金山奉行長安の土肥金山の現場責任者であったろうと思われています。 |
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慶長18年(1613年)大久保石見守の幕府転覆の陰謀が暴露されると長安に連座した役人、人夫の多くが処刑されたといいます。 しかし、土肥金山には近隣の縄地のように処罰を受けた形跡がないことから市川助右衛門尉は石見守の同類ではなかったという事であります。 石見守一党は処分されましたが伊豆金山は幕府の重要な財源であることから金山採掘は続行しなければならない事には変わりはありませんでした。金山関係者の大部分が処罰されたことから金山採掘の技術をもった人は欠乏していました。そこで市川助右衛門尉が土肥を中心とした金山奉行に取り立てられたのであったと思います。 もし市川奉行が長安の配下としたなら同様に金銀の財宝のありかを知っていた可能性もあります。果たして真実の程は・・・・・ |
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水軍の活躍した地域は瀬戸、熊野などの西日本だけでなく、多くの小さな入り江に恵まれた処、伊豆半島も黒潮と季節風に乗って活躍する水軍の根拠地でありました。 彼らは時の権力者の手足となりながら海上を自在に駆け回って活躍しておりました。 古くは将門・純友の乱、源平合戦、北条早雲の相模制圧など、江戸時代に入ってその活躍が衰えるまで争乱を生き抜いてきました。土肥も八木沢丸山城、大藪高谷城も水軍の根拠地でありました。15世紀から16世紀に活躍した小田原北条氏の家臣として仕えた土肥の城主富永氏が率いた北条水軍のなかの富永水軍がそうであります。 富永氏は北条家臣団560人のなかでも第7位にランクされ、その禄高は一千貫文と云われ西伊豆のなかでも禄高は多くても百貫文といいますから、けた外れに多かったのです。 |
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当時の西伊豆の村々は何れも似たような地形の農産漁村で平地面積も狭く、人口も少ないのに、この土肥だけが高禄高というのは西伊豆における海上の通行料などの権益を独占していたことや土肥には金山があったからです。 特に土肥金山は天正年間(1577年)に開発され北条氏の貴重な財源であり富永氏がこの管理、精錬にあたっていたからでしょう。 やがて北条氏も豊臣秀吉の小田原城攻めで滅ぼされ富永水軍も衰退していくのです。 現在は富永水軍の出城として土肥港左右に丸山城、高谷城の遺跡が残っております。徳川幕府の時代に移り徳川家康も金銀が必要でした。そこで登場してくるのが伊豆金山奉行大久保石見守長安であり長安が導入した新しい採掘方法により徳川の産金量も飛躍的に増え徳川財政の基礎を作ったと云われております。 |
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